ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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NouvellそしてFusion
 <くずす>ということはとても難しいことだと思う。
 本来それが持っている姿をしっかりと把握していなければ、てんでお粗末と相成ってしまう。
 柔道や合気道などの達人は<くずし>の名人であると言う。ちゃんとした姿を知っており、くずした後の姿さえも眼前に描かれているからこそそこまで達することが出来るのだろう。
 ふた昔ほど前にドレスダウンという言葉、格好が流行ったことがある。自分でも試してみたことがあるけれど、センスの無さのせいかおぞましいほどにチンチクリンとしか言いようのない格好だった。今、こうして思い出すだけで赤面してしまう。別にひがんでいるわけではないのだけれど、そんな格好が似合う人をあまり目にしたことがないのもまた事実。そのほとんどは粋という世界からは程遠く、ただだらしなく映るばかり。さて、今日和服を着くずすことの出来る人がどれほど残っているのだろう?

 ただ単に破壊してしまうことはそう難しいことではない。しかし、何かを不快感を与えることなく、いや一種の小気味よさを伴ってくずすのは何かを創造すること並に困難であるといっても言い過ぎではないと思う。時として創造以上の困難を伴うものもあるだろう。まず、そこにある道を極めていなければ適度な、小粋なくずしというのはありようがない。それにはものすごいエネルギーと、人並みはずれた感性が必要とされるはずだ。人為的にくずすということは、世に天才と呼ばれる人が、努力をしてやっと手に入れることの出来る世界であるのかもしれない。

 世には便利な、いや間違った使われ方をされてしまうかわいそうな言葉達が多くいる。フュージョン、ヌーベル、創作などといった言葉も、僕の中ではそちら側にカウントされることが多い。これらの言葉はここ数年本当によく目にとまり、耳にするようになった。それらの後には、キュイジン、レストラン、国の名前などが続くことが多い。ニューヨークの日本レストランという狭い範囲を例にとって見ればNOBUという先駆者の成功の後に、雨後の筍のようにあまたその手のお店が生え、枯れていっている。筍はまだまだ生え続けているのだけれど。
 かつては「もどき」と言われていた中途半端なそれらが、今では開き直って、きれいなオベベを着て笑っている。
 何が新しいのか?何が、どこが交差しているのか?
 僕の行く場所、食べた物の全てがはずれであった可能性がないわけでもない。それにしてはすごい打率だ、と自分で感心する他はないのだろうか?少なくともそれらの<くずし>は、あまりにもあやふやで、芯がなく、頼りないものに思えてならない。「バカにされている」、と感じるのは単なる被害妄想なのだろうか?

 言葉はとてつもない魔力も持っている。本質をしっかりと見つめていなければ自他共に容易に欺かれてしまう。言葉とは「いかようにも取れる」、あやふやなものであると言うことを忘れずにいたい。
「これが俺の料理だ」
 ご立派。そう、料理や芸術に枠があってはならない。枠をはめるべきではない。自分で創った物がその人の作品だ。胸を張ってしかるべきだ。しかし、何らかのジャンルに頼らなければならないのは哀しく、情けない。
「変わってるね。フュージョンだからこんなもんだろう」
新しいものから目をそむけるべきではない。自分にふたをしてしまえば中身が腐ってしまうこともある。しかし、無理やりこじつけで納得させてしまう手もない。

 フュージョン、ヌーベル、創作、もどき、邪道……。どの言葉が本当なのだろう?
 多くの場合<くずし>が出来ていないのは確かなのだけれど。


 さて、こんな事を街のレストランの看板を眺めながら考えるのだけれど、全ての事において自分にはまだまだ<くずし>を試みる資格すらないことを痛感する。ただ春の予感を楽しむばかり。生あるうちに「これが春だ!」と言い切れるほどになればいいのだけれど……。
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by seikiny1 | 2005-03-14 10:53 | 思うこと
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