ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ガラスの向こう側で
「?????」(誰かに見られている)
 不思議なことだけれど、人間には五感の他にそういった感覚もあるらしい。

 そこへ行けば毎週キッチリと二十一本のギネスビールの空き缶があった。一日に三本飲んでいる計算だ。空き缶集めをやっていると、頭の中の地図にそういったスポットの旗が数百箇所は立つようになる。これと時間帯が大量に集めるコツ。
「ゴミ箱の ふたを開ければ 一ドル五セント」(字余り)
 普段通りのルートをこなし、いつものゴミ箱のふたを開け二十一本のギネスをゴミ袋に放り込む。ゴミ箱のふたを閉めながら「?????」感じた。見上げてみると窓ガラスの向こう側に立つ男が僕を見つめていた。数年前からの知り合い。イタリアンのJだった。醒めた目で僕を見つめる彼は微動だにしなかった。立ち去る瞬間、目の端に彼の笑った口元が映ったような気がしたのだけれど。

 ニューヨークでホームレスとして生き抜くために一番必要とされるものはなにか?
 それは<見世物>になりきれること。この一線を踏み越えることが出来ればどれだけ楽になれることか。簡単に超えられるように見えて、なかなかそうはいかないものではある。それを超える為に僕は自然と<空き缶集めで一番になる>という道を選んでいたのかもしれない。それは「ただのホームレスではない」、という自己主張の裏側であるとも言える。そうでもしなければ軟弱な僕があの一線を越えることはできなかっただろう。
 好奇の目、蔑みの目、怖れの目、逃げる目、暖かい目、時としては憎悪のまなざし。様々な視線を感じる。たとえどういう目で見られようともしょうがない。僕のやってきた事も、その時やっていた事もお世辞にも<立派>といえた代物ではないのだから。僕自身もそんな大した人間ではない。「それならありのままの俺を見てくれよ。それでどうした?」、口にこそ出す事はなかったけれどそういう気持ちでこちらも応えた。同時にこちらからもジックリと人を観察することが出来る。自分が人間として素に近い状態である時、相手も少しではあるけれど素を見せることがある。
 そんな気持ちが揺らぐのは、アタタカなまなざしで見られる時。何だか落ち着かなくてオロオロしてしまったりする。

 昔の知り合いと会えば、皆逃げるように目をそらす。
 その人生が全てパーティーのようなプロゴルファーのSは柄にもなく(ありがたいことだ)僕に説教をする。
 友達のボーイフレンドは心配そうに僕の近況を聞きだそうとする。
 見知らぬ南米系の子供が僕を家に引っ張っていく。彼女の父親達は毎晩酒盛りをしていて、裏庭へ廻るとドラム缶一杯のビールの空き瓶が。彼らとはその後友達になり、毎週ビールをみやげに空き缶を貰いに行った。独立記念日にはいつも招待をしてくれBBQを一緒につついた。
 モーターサイクル・クラブのマッチョのおやじさんは、パーティー後の空き缶の下取りの商談を持ち込み信じられないほどの量の空き缶を払い下げてくれた。

「お母さん、どうしてあの人は空き缶を集めているの?」
 そんな子供の声もよく耳にした。
「あんなにならないようにね」
「悪いことしたからよ」
「あれも立派な仕事なのよ」
「臭いからあっちにいきましょう」
「ウチだって一歩間違えたら似たようなものよ」
「あれだけ集めるのは大変なことなのよ」
 親の返事もまちまちでこれもまたおもしろい。そんな親達の背中を見つめて子供は育っていくのだろう。

 人は他人の何を見ているのだろう?その中のなにを見ているのだろう?
 残念な話ではあるけれど、僕の数少ない経験から思うことは、多くの人はその対象である<個人>には目を向けていないようだ。故意に目をそらしているのを感じてしまうことすらある。彼らの目に映るのはその対象の後ろにそびえる背景や歴史のようだ。そういった人の目は決まってなにかしら怯えたような目をしている。同じ人を見つめていても、その背景が変わることでその人を見る目が容易に変わってしまう。人は他の中に自己を見てしまうこともあるのだろう。人が怖れる姿のひとつに<本当の>自分の姿というのがある。そうして目をそらしてしまう。
 そんな中でも一握りの人達の目は僕を救ってくれた。その目はホームレス、アジア人、脱落者という僕ではなく人間としての僕自身を見つめてくれた。その口で、目で、表情で僕に話しかけてくれた。あのまなざしがなかったら、それに気付くことがなかったらまだ僕はアチラ側にいるかもしれない。

 昔は洋服を選ぶ時、流行、ブランド、その物自体の価値、自分の一方的なこだわり、そんなものを基準にしていたように思う。今思えば赤面したくなるような格好も散々してきた。
 少なくとも十年前よりは洋服が似合うようになったと思う。洋服に着られるようなこともなくなったように思う。
 人を見る目と洋服を見る目は似ているのかもしれない。そして自分自身を見つめる目。

 写真家の話によると人間の目はガラスの表面と、それに映るもの、ガラスの向こう側を同時に見ることが出来ないものらしい。
 あの日Jは何を見ていたのだろう?
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by seikiny1 | 2005-03-09 10:14 | 思うこと
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