ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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無地のノート
 地下鉄で本は読まない。
 出かけるときは少なくても二、三冊の本を持っていくのだけれど地下鉄の中で読むことはない。昔、寺山修二さんが『書を捨て街へ出よう』と言った。そこまでのふんぎりがつかない僕は、さしずめ<本を閉じ地下鉄に乗ろう>といったところだ。
 地下鉄の中は飽きることがない。
 これが長距離バスや飛行機だと、長時間同じメンツで、しかも限られた空間しか目に入ってこないのでどうしても退屈してしまう。地下鉄は様々な人が乗って、そして降りる。それが延々といつまでも続く。

 目の前の女性が揺られながら何かを無心に書いている。僕と同じ道具、鉛筆とノートを使って。
 前にも書いたと思うのだけれど、何かを書く時の僕の良き友は鉛筆とノート。どこでも、どういう姿勢でも脳ミソとほぼ直結してくれる。これがキーボードになると、ワン・クッションもツー・クッションも入ってしまうのでどうしても頭の中身がそのままの形になってこないような気がする。今、こうして書いているこの文章も鉛筆とノートが、僕の脳からの最初のアウトプット。何だか遠回りなようだけれど、それでなければ自分が出ない。そのうえキーボードに打ち込む際に再確認ができるという利点もある。

 よく見てみると、彼女は普通のノートではなく紙面に方眼紙のように青く細かいマス目が組まれた物を使っていた。「色々な人がいて、その数だけ好みがあるんだな」。
 八マス、十六マス、三十二マス……。マス目が消えそれがただの枠線だけになった時に僕は解放された。横組みの枠線が入ったノートは強い憧れだった。小学校3年生くらいでクラスの誰よりも早く大学ノートを使い出した。紙の色が薄いグリーン、イエロー、ブルー、ピンクと変遷したり、ルーズリーフになったり、枠線の間隔が広くなったり、狭くなったりはしたが、ほとんどの場合僕の字は枠というものの中に存在した。これまでも無地のものをしばらく使ったことはあるけれど、やはり枠線に戻って来た。この先、枠から解放されることはあるのだろうか?今、現在、僕の気持ちはこの枠を窮屈であるとは感じない。無地のノートに対する憧れや必要性もそれほどないようだ。この、何の変哲もない、スーパー・マーケットでまとめ売りされているようなノートがそばにあればそれでいい。

 僕にとってマス目は窮屈であるけれど、枠という秩序が必要なのかもしれない。それに護られていなければ、心のどこかが不安であるのかもしれない。濃いくもなく、それでいて目に見えないほど薄くもない枠線が僕を律し、励ましてくれているようにも思える。小学生の頃とは違い、その枠からはみ出しても怒られる事はない。そこに有って、無い枠。それでも必要とされている枠。

 最初にマス目のノートで勉強することは大切だと思う。まっすぐであること、規則正しい、そんな事を知らずと学んでいくのだろう。ただ、「もしこれを無地のものに変えたらどんな子供が育っていくのだろう?」という興味はある。全教科は無理だとしても、一教科だけ無地にして子供の埋もれてしまいそうな才能を引き出してやる価値は十分にあると思うのだけれど。

 誰しも、マス目を、枠線を取り払って無地のノートを駆け回る時、駆け回りたい時があると思う。たとえその後、再び枠線の中に生きることとなろうとも、一生を枠線の中で終える者とそうでない者とでは自ずと違ってくる。
 多くの局面の中で敢えて無地のノートを選ぶのもいいことだ。
 マス目を一つずつ埋めながら、ずっと先の方に書いてある<死>という時をみつけるのも、無地のノートを隙間無く埋め尽くして終わってしまうのも人それぞれ。どっちも同じ。

 暮らしの中で一番本を読むことが出来る場所を失った僕の本は、その仲間だけが増えていくばかり。
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by seikiny1 | 2005-03-07 10:10 | 日ごろのこと
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