ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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PLAY(アソビ)
 クィーンズ地区へ足を向けることは年に数えるほどしかない。地下鉄が地上へと出て高架となりクィーンズボロ・プラザ駅に近付く頃、大きく湾曲したレールの上を走る数両前の車両の横っ腹を眺めながらいつもドキドキしてしまう。

 <アソビ>という言葉から受ける印象は人それぞれだろうが、日本人の多くはどうしてもそれを遊興や怠惰といった言葉と結び付けがちなのかもしれない。しかし、機械の構造上、人間の機能上それは欠くことができないもの。これ無しでは、様々な機械は機能することは不可能で電車は曲がることが出来ず、マンハッタンからクィーンズまでは乗換えをしなくてはならなくなる。デジカメの画像や、CDの音はギザギザになってしまいとても鑑賞にたえうるものではない。こんな事を書けば<アソブ>自分への自己弁護にしか聞こえないかもしれないが、<アソビ>は必要なのだ。
 遠くから見れば緩やかな曲線を描いているように見える鉄道のレールも、近付いて見てみればそれは無数の直線の集合体、即ちギザギザだ。もしレールそのものの幅きっちりの車輪幅であれば電車は容易に脱線してしまうだろう。そこに<アソビ>があるからこそ前進、後退、カーブの通過が可能になってくる。しかし、その<アソビ>幅が大きすぎてもまた脱線してしまうという厄介なものでもある。要は<アソビ>の加減なのだろう。
 似たようなことが僕達の生活にも言う事が出来るかもしれない。
 適度な<アソビ>は余裕を与えてくれ、故に緊張感をも得ることが出来る。しかし、<アソビ>が過ぎてしまうと、その先には必ず問題が待ち受けている。いかに遊び、どの程度遊ぶか?永遠のテーマかもしれない。「もうちょっと飲みたいけれど明日は仕事だ。でも、あと一杯くらいいいかな?」終わることのない自問自答。誰も答をれはしない。その勘所を経験や本能で押さえるほかない。

 「さぁ、今から遊びなさい!」、と言われても困ってしまう。遊びは強制されてするものではなく、必要や欲望に応じて自分の中に発生して、させていくものだから。これを強制されても楽しくはないし、苦痛に感じ、道を誤ってしまうこともある。
 <受験戦争>の名のもとに詰め込み、偏差値至上主義の教育が行われ今日の日本は築き上げられてきた。その後、どういったわけか見直しが行われ、国がその旗頭となった。それは<ゆとり教育>に取って換わられるかに見えたが、ここに来て異常な学習塾熱その一方で学力の低下や非行・犯罪の低年齢化が世論の矢面に立たされている。
 <ゆとり>と<アソビ>。似ているようでその横顔は若干違うように思われる。上で挙げた教育を例に取るならば、<ゆとり>という名のただ従来よりも大きな枠で囲うことよりも、その幅は狭くとも至って柔軟性に富んだ<アソビ>という枠で囲む。これのほうが失敗は少ないように思うし、それが本来のやり方であるとも思う。その<アソビ>の幅を広げたり狭めたりしながら、各自がベストな状態を模索していくこと。お仕着せの幅ではなく、各自にあったオーダー・メイドを自分で仕立てていく。

 どこかの国の人が、また自嘲を込めて自ら日本人の事を「アソビ下手」と呼ぶことがある。それは下手なのではなく、それぞれが自分に応じた<アソビ>の幅を知っているのにほかならない、と僕は思うのだけれど。下手なのではなく、余分な遊びをしないだけ。それ故に、まるですりあわせ運転が充分になされた精密機械のようにほとんどの場合動くことが出来る。下手ではなく知っている。自分の中でキチッと仕事をこなす実践家と夢を語る理想家が絶妙のバランスで共存しているだけ。ただ、あと少し<アソビ>があっても電車は脱線しないと思うのだけれど。

 <アソビ>の調整はこまめにやる必要がある。クラッチがスムーズにつながらなくなってしまうから。天性の職人でない限りそれには試行錯誤を繰り返し、ベストポイントを常に見つけていくほかはない。
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by seikiny1 | 2005-02-19 09:05 | 思うこと
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