ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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冬の海
 風邪で寝込んでいるうちに、二月も二日となってしまった。あぁ、身体がなまっている。ぬるま湯につかりすぎなのだろう。

 ひろげられたカモメの翼が灰色であることにはじめて気付いたように思う。これまではいつ見上げるだけだった。カモメの翼といえば、両端が黒色であることしか思い浮かばなかった。
 街では雀と鳩が繰り広げる縄張り争いもここではカモメ対鳩の図式となる。長いボードウォークの彼方に輝くオレンジ色の大きなお月様。昇ったばかりのお月様があんなに大きく、みずみずしい事を長い間忘れていた。日常のお月様は、ビルの谷間の空遠くに白く輝きあっという間に見えなくなってしまう。明け方の波打ち際に群れを成してうずくまり日の出をジッと見つめるカモメたち。
 先週、冬の海へ行ってきた。

 初めて冬の海を見に行ったのは十五年程前のサンクスギヴィングの連休だった。メリーランド州にある海辺の避暑地。連休中であり、大雪の直後であった砂浜には人影もなく雪の上に自分の足跡だけが残っていく。季節外れの海の全てが自分のものであった。
 映画「エンジェル・ハート」の中でロバート・デ・ニーロとミッキー・ロークが歩く冬のコニーアイランド・ビーチ。このシーンに僕の抱く冬の海のイメージが凝縮されている。
 どうして冬の海が好きになったのだろう?
 そこに非日常を見ているのかもしれない。冬の海へ出かけるということは、都会に住む多くの人間にとっては非日常と言ってもまず間違いはないだろう。旅という行為、冬の海辺の避暑地という目的地。そこで非日常と出会い、様々なことに思いをはせる。焼けた砂と、波の跡だけが残る硬く固まった砂、全く違った表情をたたえているけれどそれが同じである事をあらためて認識する。太陽の光を反射する遠くに見える波頭も、夏のそれよりはやわらいで見えてくる。
 たしかに冬の海とは寂しくきびしいものかもしれない、しかしそこには全てを受け止めてくれる深みがある。夏以上に多彩な表情を見せてくれる。何より静かでいつまでも波の音を聞き続けることができる。
 そこへ自分自身を見つめる為に行くのかもしれない。いつまでも続く波の音、振り返ればどこまでも続いている自分の足跡、そして眼前に広がる大きな海と、誰も歩いていない砂浜。
 冬の海は厳しさとアタタカさを併せ持っている。

 夜の闇の中を走るバス。遠くにニューヨークの灯りが小さく見えてきた。旅に出るもうひとつの楽しみは「帰る」、ということにもある。そこは目的地ではなく、帰ることとができる、帰るべき街。日常へと戻るわけだけれど、そこにはやはり安堵感がある。自分を待っていてくれる街。帰る場所があるからこそ旅と言うことが出来、それゆえ非日常と呼ぶこともできるのだろう。旅に出るからこそ、日常のうれしいこと、いやな事を再確認することができる。
 暮らしの中もまた旅に満ちている。それは単に点と点の間を移動することだけではない。意識を変えればどのようなところにも旅はある。もちろん帰る場所も。
 自分の中にある帰る場所をもっともっとしっかりと築きながらまた旅に出たい。それを作り上げつつ、久しぶりに時間をかけてバスの旅に出てみるのもいい。今のアメリカの姿を見ておくために、もうひとつの冬の海を見つけるために。
 人は常に旅を続け、静止した時に死ぬものなのかもしれない。

 帰る場所のない旅のことを「彷徨」と呼んだ人がいる。旅先で見つける「帰る場所」もあると思うのだが。
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by seikiny1 | 2005-02-03 09:52 | 思うこと
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