ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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ZEN
 アメリカで“ZEN”という言葉が流布し出してからどれくらいが経つのだろうか?
 いくつもの宗派が存在するが、キリスト教という枠の外にそれまであまり出ることのなかった西欧人にとっては「己の中に真理を見つける」という姿は衝撃的であったに違いない。アメリカでも、こと都市部には親日的な、まれに日本オタクとも呼べるような人がかなりいる。そういった人と交わす会話の中にはやはり“ZEN”という言葉がたびたび顔をのぞかせる。もちろん達磨さんのお話をはじめ、彼らよりは禅というものは小さな時分から身近にはあった。しかし、こと宗教や瞑想法としての禅に対する知識という点では彼らに軍配が上がるのかもしれない。自国(?)の文化に対する無知を恥じなければならないという思いはあるにはある。

 僕の中での禅僧のイメージは、-日々修行に励み、静かなお寺の中で座禅を組みいつの日か<悟り>を開く。その<悟り>とは自分でつかみ取る以外に法はなく、誰かに教えようとしても教えきれるものではない。-その程度でしかない。もしかしたらこれは間違った解釈であるのかもしれない。さて、<悟り>とは<無の境地>とはなんなのだろうか?

 僕自身が物思いにふけるのは、やはりベッドの中が多いようだ。ただ、それは物思いにふけるためにベッドへ入るのではなくて、ベッドの中で眠りきれない時に物思いにふけるのだが。そして、そのうちに眠りに落ちてしまい、目覚めてみたら考えていたことのほとんどが記憶から抜け落ちていることのほうが多い。だが、ベッドの中で様々な考えやヒントが浮かぶのは紛れもない事実で、眠らなければいつの日か<悟り>というものが開けるのかもしれない。<無の境地>とは、眠ったようで眠っていない状態を指しているのかもしれない。不眠というのは、僕にとってはかなり高いハードルなのでそんな所へ行く事はできるはずもないが。

 こんな事を書くと禅宗のお坊さんに怒られてしまうかもしれないが、常々思っていることがある。
 <禅>というのはもしかしたら、一番わかりやすい方法論に過ぎないのかもしれない。その方法に頼らずとも人によっては<悟り>というところへ達することができるのではないか?
 その方法は人によって様々で、絵、写真、酒、音楽、バクチ、仕事、学問、女遊び、スポーツなどなど。肝心なのはその方法ではなく、その道を歩く本人の姿勢ではないのだろうか?たとえその道が他人の目には泥まみれで汚いものとしか映らなくとも、そこを歩む者の姿勢が、目線が高いものであればどのような道をたどっていても、最後に行き着く場所は同じであるように思う。そういった姿勢で歩んでいる者には自然と自分を識り、他人を知るという能力が備わっていくに違いない。ただ、それを本人が意識しているかどうか、という箇所が最高所への最終関門になるのだろうが。

 禅寺で修行を積まなくてもそういった境地に行くことができる、と信じたい。
 日本人である僕達の中には文章にされた教え(宗教)に頼らない人が多いように思う。それは個々が己の中にそれを持っているからだろう。確かに無宗教、他宗教と呼ばれても仕方なく自国のことに関する無知を恥じ入ることはあるが、気付いていないだけでそういった禅と呼ばれる精神文化は我々の中にしっかりと流れている。
 どこを歩くではなく、どう歩くということが僕にとっては大切なこと。

 さて、どういう道を歩こうか?
 座禅ではなく寝禅でもやろうか。

 アメリカには“ZEN”に関する商品や場所がそこここにある事を付記しておく。「一体、何のかかわりがあるのだろうか?」と首をかしげたくなるようなケースもしばしば。しかし、そんなめちゃくちゃな精神性もアメリカらしくてこの国が好きな理由のひとつであるのだけれども。
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by seikiny1 | 2005-01-30 09:04 | 日本とアメリカと
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