昨日、今日とニューヨーク発のブログはこの冬最大の積雪の話でもちきりなことだろう。今朝起きて外を見てみると三十センチほどの雪が積もっていた。
雪の夜は美しい。降り積もった雪が街にお化粧をほどこしてくれる。歩道に積み上げられた黒いゴミ袋の山さえもその夜だけは、雪紋を描く雪山の風景に見えてくる。そのひとつひとつがきらめく雪の結晶の下には、普段とはなんら変わることのないゴミの山があるのだけれど。
「雪山で遭難する人が最期に見る光景とはこんなものなのかな?」、と思いながら昨夜は夜の街を歩いた。
雪の街を眺めながら、昨年出会った十代、二十代の人達の口から発された、似たような質問を思い出していた。
「セイキさんって、昔はヤンチャだったんでしょう?」
そのたびに僕は「……」、という状態に一瞬だけ陥っていたわけだがなんとかその意味するところを察していた。
どうやら最近では、僕らが使っていた<悪さ>が<ヤンチャ>という言葉に置き換えられているらしい。かわいらしく響かないこともないが、そこでやっていることは今も昔もそう変わってはいないだろう。中高生の頃、酒・たばこ・ケンカ・オートバイ・サボリ・早退・遅刻、そんなたわいもない(?)諸々の事を人は<悪さ>と呼んだ。もちろん自分達にもそういう意識はあったわけだが、あえて自ら<悪さ>と呼ぶことはなかったように思う。それはそこにやってはいけないこと、<悪>という意識があったからかもしれない。
彼ら、彼女らは自ら<ヤンチャ>という言葉でそれらをひとまとめに呼ぶ。その質問を受けた時に、その言葉に悪の意識があるかどうかを確認するまで思い至らなかったのだが、やはり<ヤンチャ>は<悪さ>に較べると悪に対する認識、後ろめたさが薄いように思う。オブラートをかけることによって正当化しているのか、悪とそうでないものの境界線が極めてあやふやになりつつあるのではないだろうか。
少なくとも僕らは悪を悪と知ってやっていた。
日本語という言葉は誠に表現力が豊かな言語で、同じ事象であってもその時々の感情や環境をふくめ極めて多様な表現をすることが出来る。もちろん例にもれず、いや他よりも抜きん出て日々進化を遂げ様々な枝葉を拡げている。この言語を持つ民族として生まれた事に誇りと喜びを感じる。だが、気をつけなければならないのは-これは多言語に関しても言える事なのだろうけれど-それは使い方によっては容易に誤解を招き、意図的に使うことにより相手を煙に巻くこともたやすいということだろう。使いようによって様々な抜け道を作っておくことが出来る。言葉のマジック。これを無意識でやり出した時は、こわい時代の到来となることだろう。
いじめ、登校拒否、殺人、自殺、リストラ、加害者、被害者、バブルなどなど。新聞の社会面を開くと様々な言葉が目に入ってくる。読む者にとってそれらの言葉から連想されるのは様々であろうが、実際の出来事に較べてみればとてもとても少ない画像しか頭には浮かび上がってこない、そしてそれはあっという間に通過していってしまう。その裏には身近な単語だけでは語りつくせない様々な出来事が潜んでいるにもかかわらず。
登校拒否という言葉ひとつを取ってみても、そこには様々な原因や形態があるはずだが我々が思い浮かべることはといえば「かわいそうに」、「いかんなー」、「親は?学校は?」、「うちの子は?」、そんなところだろう。
言葉そのものに惑わされることなく、その裏側にあるものに少しだけでも目を見開いていきたいと思う。いや、無意識に言葉というオブラートで事実を包み込む事をせぬように心がけていかなければならない。悪い意味での言葉のマジックを放置しておけば、殺人さえもが<ヤンチャ>という言葉で無意識に片付けられてしまうのもそう遠い日ではないのかもしれない。
雪に埋もれた街を歩きながらそんな事を考えていた。
雪の降りた日は美しいが、翌日には人や車で踏み荒らされてそれは泥やゴミと混ざり合い、本当の、時にはそれ以上の醜さを露呈する事を忘れずに。
日本語については、
vbayareaさんの記事『英語と日本語」を読んでずっと考えていました。