ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
街の拾得物
 昔、お金がない時にはよく下を向いて歩いたりしていた。お金がそうそう落ちているわけはないのに。しかし、たまたま入った電話ボックスで財布と目があったり、拾った古着のポケットからお金が顔をのぞかせていたりするのはそう珍しいことでもないような気がする。
 お金がある程度あるに越したことはない。資本主義の世界で僕らは生きているのだから。しかし彼等は探している時にはそっぽを向き、別段火急の要があるわけでもない時に微笑みかけてくれたりする。実に気まぐれな女性のようなものだ。

 実に不思議なことだが、こちらが欲にぎらついていたり、「何かはないか!?」とキョロキョロしていると何も見つけることはできない。それはお金に限らず、様々なチャンスや人などなど。生きていて<いいな>と思えることにそういう状況下で出会ったことはない。
 無欲という状態を一度は経験してみたいと思うのだが、どんなものなのだろう?そういう状態にある人はよく言われるように本当に<何かをひきつける>のだろうか?憶測に過ぎないのだが、そういう人は<何かをひきつける>のではなく、<何かが見える>のではないだろうか、と思う。たとえ他の人と同じ物を見ていたとしても、その目に映ってくるものが違ってくるのではないだろうか。道端に転がった小石を見ても、そういう人は感じ取るものが違ってくるはずだ。表面だけではなくもっと奥深くまで。物ではない何かが。そしてその小石もまた微笑を返してくれるのではないだろうか。

 出会いというものはそういうものだろう。
 ひとつひとつのものに目をやり、そこにどういう価値を見いだすか。お互いに肩の力を入れず、同じレベルで見つめ合う。それが出会いであるということすらも感じないもの。

 街を歩きながら後姿からでもそれとわかるほどギラギラとしている人がいる。そういった人の目に留まる事柄はやはり、直截適な何かなのだろう。それはビジネスチャンスであり、人でありとにかく益に直結するもの。わかりやすく言えば、オマンマ、欲望のたねだ。そして、彼らの目には小石は小石としてしか映らないのかもしれない。たとえギラギラでのどをうるおすことが出来てもまた乾いてしまう。そしてまた何かを求めながら歩き続ける。小石の下に流れる水脈に目が行くことはないだろう。表面をくまなく見渡すあまり、小さなことのちょっと深いところを見つめる目をなくしてしまう。

 街角に腰をおろして流れ行く人々を眺めながら、そういった事を考えてしまうことがある。「僕たちは余りに表面的な事を見つめるあまりに、もっと大事な何かを見落としているのではないか?」と。しかし、通り過ぎた道を振り返ってみてもそこに何も見つけることは出来ない。僕たちは前を向いて歩かなければならないから。

 探そうと思っても見つからないものをどうやって見つけたらいいのか?
 僕に出来るのは、ただただ自然体で生きること。
 いやなものにいはいやと言い、好きな人には好きと言う。自分に正直であり続けること。



*********明日1月11日よりしばらくニューヨークを離れます。
その間PCに触れるチャンスは多分ないと思いますので、次の記事のアップは米国東海岸標準時で1月17日になる予定です。*********
[PR]
by seikiny1 | 2005-01-11 11:19 | 思うこと
<< 4ドルと99セントと 工事はまだまだ続く >>
記事ランキング 画像一覧