ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
ことば
 氷の上にぶちまけられた魚たち。無造作に積み上げられた野菜。たったの一ドルで空腹を満たすことの出来るあやしげな屋台。路上に腰をおろして手作りのちまきを売る老女。ひっきりなしに駆け抜けて行く台車。まだ陽のあるうちにチャイナタウンで人とぶつからずに歩くことは不可能といってもいいだろう。
 この活気、エネルギーは一体どこから生まれてくるのだろう?

 はじめてニューヨークへ来た頃、チャイナタウンを歩くたびに見知らぬ中国人から声をかけられた。まくし立てるような中国語の嵐の中でこちらが唖然としていると、あきれたように首を振りながらスタスタと歩み去る。背中を追ってみると、少し先で別の人も同じ洗礼を受けていた。
「俺って、中国人に見えるのかな?」、と当時はその程度にしか考えていなかったのだが、それは間違いであったことにしばらくして気付いた。彼ら、彼女らはたとえ相手が熊のような白人だろうと、いかつい黒人だろうと、警察官であろうと、交通局の職員であろうと、はたまた顔見知りでありしかも中国語が通じないとわかっている者にさえ平気で中国語を浴びせる。多民族国家、多言語などの歴史的背景のせいなのか、流れる民族の血のせいなのか、彼ら、彼女らにとって<言語>という名のことばはさほど大きな意味は持たないらしい。大切なのは何を<やる>のか<やりたくない>のか、相手は<どう?>なのかということのようだ。たとえ相手が象であっても彼らは中国語を浴びせるのかもしれない。たまたま中国語という言語を知っているだけで、それがアラブ語であっても同じ事をするのかもしれない。彼らの前では、言語とは便宜上のたった一つの道具。自分の<ことば>を表す一方法に過ぎない。その地位はきわめて低く、あやふやなもののように僕の目には映る。
 時として、彼らをうらやましい目で見つめるもう一人の自分がいる。
 自分のことばを持つ彼ら。そのゆるぎない自信がうらやましく思えてくる。

 こんな話もあった。
 日本のバブル経済が全盛の頃、日本からは多くの企業がアメリカへ進出し、それに伴い多くの駐在員達がやって来た。彼らは企業によって派遣され、住居の保証、高給与などその待遇面ではとても恵まれていた。
 その一方で現地採用と呼ばれる、アメリカの学校を卒業してこの地で職に就く日本人も多くいた。待遇面では駐在員とは天と地ほどの差があったといっても過言ではないだろう。
 現地採用組は「英語もろくに喋れないくせに、ポッと来て部長のいすに座り高い給料持っていきやがって」、と面白くない。
 駐在員側からの言い分を聞いたことはない。
 学校こそ出ていなかったが、僕にも現地採用組の末席を汚していた時期がある。そんな僕でも駐在員達の待遇にはある程度納得はいっていた。全く自分とは縁のない世界なので、かえって醒めた目で見ることが出来たのかもしれない。
 彼等はことばを持っていた。言語の壁を越えることばを。
 確かに<英語>という言語のレベルに関してはアメリカの小学生以下の人が多かったことも否めない。しかし彼等は<仕事>ということばに関しては極めて堪能であった。不思議なことに最初は言語面でうまくいっていなかったアメリカ人との間の溝も仕事ということばで埋まり、時間の経過と共に物事はスムーズに流れていく。仕事ということばで口を開き、仕事ということばに耳を向けていた。彼等は仕事ということばのネィティブ・スピーカーだったのだ。もちろん例外もいたが。

 言語というのは確かに重要なことばのひとつではある。しかし、所詮はことばというコミュニケーションの道具の一つであるに過ぎない。どんなにその言語が流暢でも、中身が空っぽでは何も訴えることはできないし、心から相手のことばに耳を傾けることも出来ないかもしれない。
 言語という道具にとらわれることなく、なんでもいい、たった一つでもいいから自分のことばを持つこと。
 絵、写真、ダンス、料理、歩き方、人も見る視点などなど。必ず自分にあったことばがあるはずで、自分でなければ喋れないことばがあるはずだ。
 そしてことばには強弱をつけて。発するという強と、受けるという弱。一方通行ではひとりごとになってしまう。壁に向かって話しているのと同じことだ。たとえ最初は片言であっても、発する者に意志があれば不思議とそれは伝わるものだ。受ける者が注意深く耳を傾ければ伝わるものだ。
 一方通行(我を通す)ということは、たとえそれが多数派ではなくてもいやでも目立ってしまう。中国人に不快感を持つ人達は、そこにことばの一方通行を見出しているのかもしれない。

 とにかく、ことばを喋ってみることが大切だと思う。ことばという物は、喋っているうちに、聴いているうちに自然と上達していくものなのだから。
 たとえ自分のことばが通じない世界でもことばは通じる。相手の声を聞くことが出来る。自分にその意思さえあるならば。

 第二次世界大戦以前の日本のように、日本のことばが通じる環境を無理して作るのではなく、自分自身のことばを、耳をもっと研ぎ澄ませていきたいと思う。
[PR]
by seikiny1 | 2005-01-08 10:14 | 思うこと
<< ブルックリン 多期多会 >>
記事ランキング 画像一覧