スーツを着たことは三回ある。ネクタイを締めたことは数十回程はあると思う。
これから先、葬祭などでそれらを身にまとわねばならない(哀しい)機会が確実に増えていくことだろう。
いつの頃からか<襟モノ>を着なくなっていた。昨年一年間を振り返ってみても、シャツに腕を通した回数を容易に勘定できる。襟付きのシャツを持っていること自体が少々不思議でさえある。
それでも高校生までは制服のある学校だったので、着崩しこそしてはいたが一応シャツには毎日腕を通してはいた。自己主張はシャツの下に着込むTシャツ。それは子供時代のU首のTシャツに始まり、当時大ヒットになったBVD社製の<絶対に>首元が伸びない(頭の大きいやつにははいらない)Tシャツ、洗った後の風合いが実にいいHanes社製の真っ白なTシャツ、そして色つきや文字入り、絵柄入りへと変わっていった。
高校を卒業すると、お気に入りのTシャツを探しに街をうろつき始めた。その当時は、お店も少なく、その在庫自体も少なかったことと、僕の選択の基準がサイズよりもデザインに重きを置いていたせいからか、僕のTシャツはサイズの大きなものが自然と多くなっていった。洗いにかけると生地が伸び独特の風合いになるのだが、同時に襟元も伸びてしまい僕のなで肩に乗ったTシャツはちょっと油断をすると襟元がU字を描いてしまっていた。そのサイズの大きさとあいまって、シルエットとしてはやせたおじいさんの肌着のようになっていたことが多かっただろう。それでも自分のお気に入りを着ていると実に気分が良かった。
襟付きのシャツの中で一番多く着た物は間違いなくハワイアンャツ。それらもある時、一時に失ってしまったのだが。それ以来、シャツに腕を通すことはほとんどなくなってしまった。
今ではほとんどの時間をTシャツと共に過ごしている。冬場にはそれにセーターやダウンなどが加わるだけ。
こういった暮らしをしていると、Tシャツ磁力といったものでも生まれてくるのだろうか、街を歩いているとアパート前のゴミ置き場あたりからカワイイTシャツが顔を覗かせていたり、たまたま入ったスリフト・ストアで艶やかなTシャツに微笑まれたり、友達のおみやげがTシャツだったりと自然とその数が増え続ける。さて今は何枚あるのだろう?
もともと肌着として生まれたTシャツは、それ自体に文字や絵柄をプリントすることによって洋服、しかもそれらの中で一番メッセージ色が濃い物へと進化を遂げた。アメリカが生んだ最大の文化の一つだろう。良くも、悪くも容易に自己主張をすることが出来る。もちろん僕にもそのメッセージ性よりデザインを重視して着ていた時期があった。それはある意味恐ろしいことでもある。しかしそれよりも恐ろしいのが、主張の強すぎるTシャツに着ている本人が飲み込まれてしまうこと。これは没個性、本末転倒以外の何者でもない。本来個性の主張のはずの洋服に飲み込まれてしまうなんて。Tシャツは実に危なっかしい洋服だ。
シャツのボタンを首元までぴっちりと留める人、第一ボタンを外す人、第二ボタンまで外し胸元を拡げる人、ボタンを留めずにシャツをまとう人、ズボンに入れる人、入れない人。ごく単純なシャツの着方だけでも、パッとこれだけが思い浮かぶ。
洋服選び、そしてその着こなしとは自己主張であると同時に、他人が自分を判定する基準ともなり得る。僕も人の着こなしを見て「オッ、こいつには俺と似たようなにおいがするな」などと思うこともある。その人の着る物、着こなしがその人との距離をどう設定するかのひとつの判断材料になる事は否めない。
年をとったということなのだろうか?
かつては自分と全く毛色の異なる人間は避けていた。そこにはシャツのボタンを一番上まで留めた人や、スーツを着込んでご満悦の輩を鼻でせせら笑っていた自分が確実にいた。その垣根は段々と低くなり、ある程度その人の主張を認められるところくらいまではなんとか来たように思う。
人はどうしても第一印象、特に目か入ってくるのに左右されることが多い。
ブログというものをはじめて一ヶ月余が経つ。そこには、やはり目から入るものはあるが人の姿ほど大きな印象を残すことはないし、かえってその内面をあらゆる角度から照らし出してくれる要素に満ちあふれている。表面や、外見だけではなく本当に大切なもの。発展の道半ばであり、匿名性ゆえの欠点もまだまだ見て取れる。ただ僕はここに<人を見かけだけで判断する>という人間の大きな欠陥を補い、是正し、転じてはこの世界から「<偏見>という言葉がなくなっていくのではないか?」という可能性すら感じる。
「見かけで人を判断してはいけないのよ」、わかってはいるのだけれど。
最近では相手への気配り(?)で襟付きのシャツを着ることがたまにはある。そのボタンは全開で、裾は風になびいていても<シャツを着ている>。日ごろの僕からしてみれば、これはかなりのフォーマル。表面上にそれが現れなくとも、その時の僕は相手に敬意を抱いている。シャツを着ることで、相手に対する自分にも何か別なものが生まれてそれが伝わると信じている。次は、お互いにTシャツで会える事を考えながら。