コーヒー、日本茶、歯磨き、お酒、タバコ、背伸び、シャワー……。
人は色々なもので気分転換が出来るらしい。どうやらそういったもので自分を切り替えることが出来るらしい。なんて器用なんだろうな、うらやましい限りだ。
暖かな部屋に座ってばかりいると感覚が鈍ってしまうように感じることがある。それは自分の中で行われている発酵があたかも止まってしまったような感じにも似ている。色々な方法で気分転換というものを試みるのだけれど、いつも自分で頭をひねってしまう。それらの行為が自分に対して単に言い訳をしているようにしか感じてられないからだ。
<たまり水>になっている自分の中に流れを作るために外へ出よう。やっぱり僕は外に出ていなければなんにもできはしない。たとえそこが氷点下以下の街だろうと、焼けたコンクリートでうだるような地下鉄の構内であろうとも。外は僕にいつも喝を入れてくれる。せき止められていた水に動きを作ってくれる。それがどんなに小さなことであろうとも。風に舞う新聞紙、電線の泣き声、泣いている子供、それらの全てが僕に息吹をくれる。ゾーリを引っかけドアからたったの一歩踏み出すだけで世界は全く違ったものとなる。全てが一斉に音を立てて動き出すのを、自分がこの風景の一部である事を感じる。
家にいて変わらぬ風景や、同じ窓から見える外の様子を見ていても何かが生まれることもあれば、外へ出てなんでもない光景が火をつけてくれることもある。静と動。どちらも素晴らしいし、お互いが他にはないものを持っている。僕が生きているこの世界に万能の神はいない。誰もが何らかの障害を抱えて生きている。そんなものの良いところ、悪いところ、全てに目を見開いて歩いていこう。つきあっていてどんなにつまらない奴でもいいところを見つけてみよう。どんなにきれいで大好きな女の子でも足は臭いかもしれない。
日常は、常識は大切で、ある意味快適なのかもしれないが<常>にばかり目をやるのではなく、たまには<非>にも熱い視線を注ごう。<常>の上に<非>をつける。
僕にとって<外に出る>ということは自分に欠けているものを探す旅に出ることとも言える。何かを補う為に歩き回る。どんなに小さなことにもそれを見つけ出す。そしてそれを味わい、嚥下する。まるで野菜不足の人が肉料理の飾りについてくる野菜の突けたしをゆっくりと味わうように。
気分転換とは探し物の旅に出ること。自分では何を探しているかさえわからない探し物をする事を、昔、誰かが気分転換と名づけたのだろう。言葉にとらわれずに探し物をするとしよう。そんな時いつも僕の頭の中に流れる歌の一節がある。井上陽水の『夢の中へ』。♪探し物はなんですか、みつけにくいものですか……♪中学生の時に初めて耳にして、僕をどこかへ連れて行ってしまったこの曲がいつまでもこだまする。
罪作りな歌だ。
何を探しているのかわからない、どうやって探し出せばいいのかもわからない、それを見つけ出したからといって僕がどうなるのかさえわからない。ただ闇雲にあちらこちらを掘り返してみたり、ただじっと佇んでいたりする。いつの日かそれは見つかり、また次の探しものを始める。人はそうやって世を終えてしまうのかもしれない。
クリスマスツリーのなきがらや、プレゼントをかつてはやさしく包んでいた、くしゃくしゃになった包装紙がそこここに転がり、凍った風が渦を巻く街並みを歩き、そして深呼吸をする。
探しものは見つかった。
今年も残すところあと一日、いまさら気分転換でもないけれど今年最後の探し物は一体何なのだろう?