ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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自己活字欲
 自分の血液型を知らない。
 恥ずかしながら、この歳になるまで献血はおろか採血すらやったことがない。両親はA型とB型なので全ての血液型の可能性があるらしい。
 友人らと集まる時、何かにつけて血液型の話になることが多くそういった時には皆が僕の血液型を推測し、あれやこれやとしばしおしゃべりの花が咲く。
 ほとんどは何もしないのだけれど、一度何かに没頭したらとことん行ってしまう性格であることは自分でも感じている。ある人はそこに<完璧主義>の烙印を押し、A型論を導き出す。

 小学校に上がる前から本は読んでいたが、はじめて自分の活字の所有欲を意識したのは僕が四年生の時だったと記憶する。三歳年上の姉が中学生になり、<中一時代>という雑誌を買ってきた。僕は物珍しいそれを手に取り眺めた。その裏表紙は僕を吸い込んで行った。そこには赤いボディーを持つオリベッティーというイタリア製のタイプライターが毎月印刷されていた。この衝撃が変形して、後に僕をアメリカまで引っ張って来たことは紛れもない事実。

 本や映画の映像が自分の内に堆積し、僕自身が描くタイプライターのイメージは次第に拡がり、そして固まっていった。それは白黒の映像で、薄暗い部屋の中でタバコの煙を照らし出す卓上スタンドが乗った机に向かう男の後姿。彼の指は重いキーボードの上をそれでも器用に動き回り、タイプライターからはハンドルの操作と共に文字列が吐き出される。「カタ、カタ、カタ……」という乾いた音が部屋には充満している。
 こういったイメージと共に僕の自己活字欲はどんどんと高まっていった。

 現在、ワープロとコンピュータの普及により自分の活字はほぼ生活の一部となっている。生まれた時からそういう環境にある人の割合もかなりの数字だろう。
 僕自身もキーボードを叩き、それが活字になる喜びを今でも持ち続けている。たとえそれが誰に読まれることがなくとも、プリンターから吐き出された文字列を見ているだけで相変わらず嬉しくなってしまう。ただの自己満足といえるかもしれないが。
 しかし、時を経るに従いその喜びと平行し、「何かが違う」、という感覚にとらわれ始めた。
 e-mailのような短文ではそれほどは感じないのだが、ある程度の文字量を持った文章になると、そういった違和感に包まれてしまう。
 誰の文章にも独自のリズム、スピード、流れ、しなやかさ、そして全体像などといった特徴、個性が存在する。僕自身に関して言えば、キーボードを通し次々と画面に現われてくる文字列に「自分のものではない」といった感覚を頻繁に持ってしまうし、手書きで書いたものと、直接入力したものを読み比べてみるとそれはやはり別種のものに仕上がっていることが多い。魂とでも言うのだろうか、そういったものの欠如を感じてしまう。

 僕の稚拙なキーボード操作にも一因はあるのだろうが、これはやはり生まれた時にペン感覚でキーボードを触ったか否かによるところが大きいと思う。僕の場合はやはり、脳で考えた事を一度頭の中で文字列に置き換えてからでないとキーボードを叩くことが出来ない。その一瞬で魂が失われてしまうのだろう。一方、ノートに鉛筆で書く時には、文字が脳に直結しているのを感じる。考えるのと同時にそれは文字となって現われそこに定着する。何のフィルターも通さずに目の前に現われてくれる。

 僕にとって<書くこと>というのはやはりその文字面どおり書くことに尽きる。脳と十本の指が直結することはこれから将来も起こることはないだろう。鉛筆がすべるように埋めていったノートの中にしか本当の自分自身を見出すことはできない。いくらブラインドタッチが完璧になっても、そこから生まれたものは別個のものでしかない。
 僕にとってキーボードとは単なる一事務機器、優秀な校正機器であるに過ぎないようだ。

 活字になった瞬間に文字達は命を失ってしまうのかもしれない。

 やはり僕は完璧主義者ではないようだ、それとも別の意味で完璧主義者なのだろうか?
 さて、血液型は一体何型なのだろう?
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by seikiny1 | 2004-12-27 09:05 | 思うこと
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