「クリスマス」、と聞いて最初に思い浮かべるのは?
僕の場合は銀紙。
あれは多分、幼稚園の頃だろう。父親が奮発してそれまでには見たこともないような大きなカシワの足を買ってきた。あれは多分ローストされていたのだろう、と今にして思うのだが。食卓の上にいくつも並べられたそれらの足先に巻かれた銀紙がとてもまぶしかった。姉と二人で目を輝かせてじっと見つめていた。あれはアルミ箔ではなく、僕にとってはいつまでも銀紙。
この時期、街はクリスマス・イルミネーションであふれ、寒風にもまれながらも人々は幸せそうな顔をして早足に歩く。この国が一年中で一番幸せに満ちあふれる時期。
人々はクリスマスプレゼントの買い物に忙しく、足早に歩く。
日本でクリスマスとビジネスそして宗教に関してあれやこれやと言う人が出てきたのはいつ頃なのだろう?今年もすでに何かで読んだ記憶がある。
以前はクリスマスとは、教会そして家庭のものだったのだろう。起こりは宗教的なものだろうが、今それは裾野を広げ恋人達、友人達で祝われることも多い。プレゼントのやり取りも多く行われ、それに伴いビジネスとしても大きな節目になるわけだ。一説によるとアメリカの小売業の年間を通しての売り上げの数割はこの時期に集中するとも言う。
宗教とビジネス?
まぁ、その関係は複雑なものがあるだろう。僕は現状でもいいと思うのだけれど。
プレゼントを交換するという行為よりも、一緒に祝うということが大切だと思うからだ。たとえそこに宗教的背景が全くなかったとしても、その日、その時間を共有し幸せになる。プレゼントには送る人達のそういう気持ちが込められた副産物に過ぎない。ギフトとはそういうものだと思う。
我々は初詣に行く。クリスチャンの人が行くこともあるだろうし、我々のそのほとんどは<一応>あまり自意識のない仏教徒である。来年の人出は九千万人以上(あらためて考えてみるとこの数字はすごい。老若男女ひっくるめて七割強!) と予想されているらしいし。初詣に行けばそこでお賽銭をやりお願い事をし、お守り、お札、破魔矢などを買う。神社にしてみればこれは立派な年間最大のビジネスだろう。そしておまいりした人は一年の事を思い描き幸せな気分になったり、気分を引き締めたりとその日はやはり特別な日であり、それらに対する散財に対してはおおらかになる。
苦しいことの神頼みに始まり、葬式にはお坊さんを呼び、結婚式は神前か教会で行い、子供たちは教会付属の幼稚園へ行ったり……、と我々と宗教の距離感はそんなものなのじゃないだろうか?僕はこの距離感はとても好きだ。とても日本人らしく感じる。だからクリスマスを祝う。キリストが生まれたからではなく、みんなで幸せな時間を送る日がある事を嬉しく思うからだ。そういう日が一年に数日くらいあったっていい。たとえそこに宗教というものが確実に存在したとしても、それはほんの小さな要素のひとつでしかない。クリスマスは宗教の枠を離れ一人歩きをし、ついて行く人がこれだけいるのだから。
昔の大戦で、何の申し合わせもないのにクリスマスの日に銃火がやんだ、という話を聞いたことがある。
クリスマスという日を世界で宗教の枠を超えて皆で祝って欲しい。
敵も味方も。
たった一日だけでもそういう日があって欲しい。
それは決して他人まかせではなく、一人一人がそれを思うことで実現していくのだろう。自分に出来る事をやる。
War is over
If you want it
War is over
NOW
僕が一番好きなクリスマスソング。
Happy Christmas (war is over)/ John Lenon
この日、誰もがそれぞれの銀紙を見つけることが出来るように。