ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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珈琲
 コーヒーが好きだ。
 一体一日に何杯飲むのだろう?中毒ではないので、飲まなければ飲まないで別にかまわない。しかし好きだ。ニューヨークではほとんど家で飲む。外出する際にはポットに入れていく。

 日本でもコーヒーをよく飲んだ。
 やはりこちらのコーヒーより格段に美味しい(舌にあう)。
 日本では外に出ていることがほとんどだったが、ポットを買うのも馬鹿らしいので出先でコーヒーショップを見つけて飲むことになる。
 十年近く帰らないうちに喫茶店というものがほとんどなくなっているのを再確認した。話には聞いていたけれど、ここまでとは思っていなかった。そのかわり、色々なチェーン店もしくはフランチャイズ店があちこちに見られる。必然そういう場所で飲むことが多かったのだが、たまに小さな煤けた喫茶店を見つけると、まるで吸い寄せられるかのように入って行ってしまっていた。もちろん、値段は大手チェーンに比べると倍近いのだがあの独特の空気がたまらない。低い天井。幅広いカウンター。独特の食事メニュー。マガジンラックの新聞と本。コーヒーの香り。そしてマスター。
 喫茶店がないのが普通となった今、これからの文化が変わっていくのかな、と漠然と思う。
 中高生の頃は<喫茶店へ行く>ということがひとつの遊びであり、わくわくして楽しかった。そこで他校の生徒と会い、漫画を読み、タバコを喫い、何かの打ち上げがあれば帰りにより酒を飲ませてもらったりしていた。何よりも喫茶店を選ぶ、繰り返し通う基準にその店の持つ雰囲気と、マスターというのがとても大きな要因だった。そして通った喫茶店のマスターらから薫陶を受け、自分の中でもそれがいまだに生きているのを感じる。そして通う喫茶店によってグループができたりなど、喫茶店はひとつの文化だった。僕にとっては一つの学校のようなものでさえあった。
 大手チェーンの画一化された味、店内、雰囲気(それはそれで安心は出来るのだが)。そして何よりもマスターが存在しないその店。あの頃に比べてコーヒーという存在が身近になったというのは事実だろう。その反面、個性というものがない(店の経営側としてはもちろん打ち出したくはないだろう)、ということがことコーヒーショップに限らず今回の日本帰国で感じたことのひとつだった。僕らはコーヒーという液体と一緒に様々なものを飲み込み吸収していった。決して美味しい味ばかりではなかったが、その苦くもある味がとてもたまらなかった。

 喫茶店文化を知らずに育った若い人達がどう成長し、どういう文化を創っていくか楽しみだ。
 ニューヨークでもスターバックスなどのチェーン店に押され、確実に従来のダイナーが姿を消しつつある。さて、ダイナー文化がなくなったアメリカにはどんな新しいものが生まれるのだろう。

 たぶん僕らでは全く想像のつかないものが十年後、二十年後には出現しているはずだ。それがどんなものであれ喫茶店文化の中で育った僕にはとても楽しみだ。

 今回の帰国でよく利用させてもらったDコーヒー。カウンターの前のガラスの向こうには小さな公園があった。そこに毎朝集まる老齢の男女。必ず片手に缶ビールを持ち、皆思い思いの手製のおつまみを持ってきて、植え込みに腰をおろし談笑していた。あれもやはり文化なんだろう。そして彼ら、彼女らは喫茶店で遊んでいた僕らを同じような目で見ていたのかもしれない。そしてガラス越しの僕らをも観察しているのかもしれない。
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by seikiny1 | 2004-12-13 11:11 | 日本
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