ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
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網棚文化
 日本へ帰っていた際、とにかく電車にばかり乗っていた。日本で一番何にお金を使ったか?と問われればそれは間違いなく交通費。交通費についてはまた別の機会にゆずるとして、今日は電車について。

 日本でしかも東京で電車に乗る場合、そこが始発の駅でもない限り座席に腰をおろす事に関しては、はなっからあきらめている。電車の中で立つという事は自然視点が高くなり車両内の風景に目がいきわたりそれはそれで興味深いものだ。まず、ニューヨークの地下鉄にない物に目が行き色々な事を考える。
 クッションの効いたほんのり暖かい座席、吊り広告、ゆらゆらと揺れる吊革(そしてその周りに施された筒状の広告)そして網棚。こんなところだろう。まぁ、日除けのためのシェード、窓ガラス、座席の配置、車両内を巡回する車掌さんなどなどあげだしたら切りはないが……。
 そんな中で僕の興味をそそったのは網棚。
 初めてニューヨークへ来て地下鉄に乗った際に最初に違和感を感じたのもプラスチック製の座席そして網棚がないことだった。この地では満員電車の問題よりも防犯という点のほうが重視されているせいか車両内に網棚はない。
 日本で、特に満員電車の中で網棚は活躍する。身の回りの品を手に持ったり、背負っているよりも楽であるし、網棚に荷物を置くことによりそのスペースに乗客をもっと詰め込むことが出来る。僕も電車の乗った際には迷わず荷物を網棚に置く。ただ、その分忘れ物も多くなるだろう。自分の肌身から離れた所有物はついつい忘れてしまう。二十年以上前の話になるが、国鉄(分割前のJR)払い下げ品店でよく古着や、古道具をあさったものだ。そして僕自身も今回の帰国中に何回か忘れ物をするところだった。
 所有者の手を離れたモノが延々と並ぶ網棚。なぜだか不思議な空間に思えてきた。たぶんあれは、まだまだかろうじてお互いを信用する(信用したい)ことが出来る文化の具現化の象徴のようなものだろう。荷物を持つことによって他人に迷惑をかけたくない。置き引きもそれほどなく、座席が空いたら荷物から離れて坐り眠りこけてしまう。危険物が持ち込まれる可能性もない(と信じている)。ただ駅の構内では「不審な荷物を見かけたらすぐに係員に通報してください」とのアナウンスが流れ、ゴミ箱を見かけることはほとんどない。この二つの事実の間に横たわる溝。そこに過渡期の日本を見るような思いがした。
 そして網棚に残る新聞、週刊誌、コミック雑誌たち。これはやはり日本独自のリサイクル文化だろう。数十円から数百円のものだが自分にとっては不要となったもの、しかし旬のものであり、ある人にとっては欲しいものでもある。そして読み終えたらまた網棚へ返す。電車の天井近くに無言のリサイクル文化が出来上がって数十年は経っているだろう。僕も気付いてみたら電車に乗り込む際の視線が座席を探す下向きから、読み物を探す上向きに変わっていた。
 しかし、大きな駅の構内や繁華街の路上で百円均一で雑誌を売る人達を目にするたびに「あぁ、この文化もいつまで続くのだろうか?」、と寂しい気持ちになっていた。あの数量や、品揃え、街頭で売る仮設店舗(?)の数を見ると組織化されているとしか考えられない。そこに需要があるからこそ供給があるのだろうが、やはりあのお互いの目には見えない不思議な信頼関係で結ばれた電車の中からひとつの文化が消えるのは哀しい。

 土曜日の夕方の電車に乗り込んできた某中堅男優。車両に入った彼の視線はサッと網棚を泳ぎ、さりげなく一部のスポーツ新聞を手にした。なぜかほっとしてしまった。
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by seikiny1 | 2004-12-11 07:40 | 日本
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