最初のアパートはFurnished(家具つき)だった。それでも足りないものがあり、近所のドラッグ・ストアへ早速買い物に。
今ではもう見かけなくなってしまったドラッグ・ストア・チェーンGenoveseという店へ。
Westclock社の白いめざまし時計、Dickinson'sのWitch Hazel、それとパーコレーター。ほかにも何か買ったはずだが思い出せるのはこれだけで、そのかわりに蛍光灯でてらしだされた中途半端に明るい店内をよく覚えている。まずびっくりしたのは目覚まし時計が棚から突き出た金属製の棒にぶら下がっていたこと。もちろんプラスチックのパッケージに入っていたのだけれど、
<目覚まし=箱入り=置く>
という公式が見事にくつがされてしまった。隣には、その頃、ぼくの中でアメリカの象徴のような存在であったZippoのライターのざらついた表面が蛍光灯の光を反射しながらやはりぶら下がっている。箱になんか入ってはいない。
パーコレーターがほしかった。
水を入れ、金属製のメッシュ部分にコーヒー粉を入れてふたをするだけ。あとはガスコンロの上置き火をつける。
仕掛けとしては水の熱対流でコーヒーを抽出していくというもの。沸騰してきた水は一度ふたの部分に取り付けられたつまみに吹き上げられコーヒー粉の上へ落ちていく。つまみは透明なのでそこに映る茶色い水の濃さで「もうそろそろかな……」と適当なタイミングを見計らってコンロから下ろす。
いつか映画で見たシーン。題名は忘れてしまったが台所に立つスティーヴ・マックイーンの姿が焼きついている。小さなフライパンでフォークを使いながらスクランブル・エッグを作る。横では沸騰をしているパーコレーターが茶色い水を噴き上げている。そんな映画のひとコマの中で暮らしたかった。もちろんそれを見てからはスクランブル・エッグを作るときにはフォークを使うようになったし、マックイーンがやるようにフライパンの中で大量のケチャップを混ぜ込むようになっていた。もちろんビン入りのやつで。
朝起きて一番にパーコレーターのコーヒーが飲みたかった。スーパーへ行けば透明のつまみだけがスペア・パーツとして売られている。そんな中で生きていたかった。
パーコレーターでコーヒーを沸かさなくなってどれくらいが経つだろう?
引越しを繰り返すうちに荷物は減って、増えてを繰り返し、その中身は自然と入れ替わっていく。気づいてみるとぼくのアパートのキッチンにもドリップ式のコーヒー・メーカーの定位置ができており、代替わりまでするようになっていた。ひとりになってからはわざわざ一人用のコーヒー・メーカーを買う始末。いつの間にかコーヒーの公式の中からパーコレーターが抜け落ちてしまっており、しかもそれに気づいていなかった。
イースト・ビレッジにある日本レストランでサイフォン式のコーヒーに再会したときに感激はしたがただそれだけのこと。パーコレーターのような魔力は持っていない。
コンロの上でぐつぐつと煮えたぎるのだから、通に言わせれば味も香りもあったものではなく、コーヒーと呼ぶことすらはばかられる代物かもしれない。それでもあれがぼくのアメリカの味。おしゃれなフラスコからではなく、薄っぺらなやかんのようなものから直接カップへと注ぐ。最後のほうになってくると、ザラリとしたコーヒー豆の苦味が頻繁に舌に触わる。それがアメリカの味だった。
アメリカン・コーヒーが飲めたあの頃。決して主張をしないコーヒーの香りは互いにサラリとした関係でいることができる。
久しぶりにドラッグストアでパーコレーターを探してみようか。