ニューヨーク、街と人、そして……
by seikiny1
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
お願い
当サイト・メインコンテンツ内にある全ての著作権は筆者に帰属いたします。無断転載及び流用は固くお断りいたします(トラックバックに関しましてはこの限りではありません)。
以前の記事
カテゴリ
30年
 どこをどう叩いてみても〈文学〉だとか〈本〉なんてものが出てきそうもない人だった。ポマードでテカテカに固められたリーゼントが自慢のY先輩。仲良くなってしばらく経つと、会話の端々に登場するホールデンという名前の男がぼくの頭のはしっこにも住みだし、おぼろげながらも像を結ぶようになってきた。そいつがどこに住んでいるのかてんで見当もつかず、ついにこらえきれなくなったぼくは訊いてみることにした。その足で本屋へ走った。それほどに彼は魅力に満ちていた。

《ライ麦畑でつかまえて》
 いま、ぼくがここにいる契機となった様々なことのひとつにこの本の存在、そしてホールデンがある。ここには、それまでぼくが抱いていたアメリカというオメデタイ国の底に潜む翳、そしてあの頃の自分があった。

 思い起こしてみると、もう30年以上も読み返していない。数年前にブックオフの$1コーナーの中に見つけ、「久々に読んでみるか」と買ってはみたものの、つい最近まで本の山の中腹に埋没したままになっていた。言い訳ではないけれど、本というのは自分の中の旬に読むのが一番いい。

 そんなぼくに再読のきっかけを与えたのは、先日、ブルックリンの図書館から借り出した《サリンジャー選集 短編2》。誰かが引いた赤い傍線が目障りだったが、それ以上に「こんなんじゃない!」という翻訳への不満から消化不良を起こしてしまっていた。あの本は旬を知らせるために、僕の手元へとやってきたのだろう。

「あのときの感動はなんだったんだ!?」
 そんなことにならない保障はどこにもない。
 時のヤスリにかけられた古い記憶は美しくなる。先日、掌にとってみた朝顔の種はたしかに40年持ち続けていた記憶のものより小粒だった。
「今、この本を再読してみて、あの時と同じものを感じることができるだろうか?」
 不安よりも、自分自身に対する興味がまさり、約30年ぶりの《ライ麦畑でつかまえて》を開いた。

 ぼくは確実に齢をとった。
 けれども感動には曇りも、錆もない。ホールデンはあの時のままページの中を動き回り、今にも隣に腰をかけてぼくの顔をのぞきこみながら喋りかけてきそうなほどにみずみずしい。齢をもはねのけてしまうほどに。
 ホールデンは言う
「何ひとつ変わらないんだ。変わるのはただ。こっちの方さ。といってもこっちが齢をとるとかなんとか、そんなこといってんじゃない。厳密に言うと、それはちょっと違うんだ。こっちが、いつも同じではないという、それだけのことなんだ。オーバーを着ているときがあったり、隣に別の友達がいたり……」

 内容は言うまでもなく、訳がすばらしい。冒頭で引き込まれたリズムは最後まで衰えることなく流れ続け、やがて霧の向こうへと消えていく。
 短編集の方には《ライ麦畑でつかまえて》の試作となったものも含まれていたが、とても単純ではあるのだけれど、とても気になる箇所がある。突きつめると、ぼくのイライラの根源はこの一点に凝縮をされている。
 それは「熱いチョコレート」。
 学校を去ることになったホールデンは、スーツケースを下げて恩師の自宅へ寄る。あらかた話も終わり、辞去しようとする彼に「熱いチョコレートでも飲んでいかないかい?」とすすめる恩師。
 これは「熱いチョレート」でも「ココア」でもなく、「ホットチョコレート」とやって欲しい。もちろん、日本にいた頃のぼくはホットチョコレートなんて知らなかったが、それでもホットチョコレートで押し切って欲しかった。ホットチョコレートのリズムなんだ。読者に親切である必要なんてないのだから。
「ん、そろそろだ……」
 読みはじめた《ライ麦畑でつかまえて》では、件の箇所が気になりどうも落ち着かない。
「!」
「!!」
 さすが。野崎孝さんという訳者は「ホットチョコレート」でいってくれていた。
 彼のすべてが注ぎ込まれ、花開いたのが《ライ麦畑でつかまえて》という作品なのだろう。ここでは絶対にホットチョコレートでなければならない。文化を知っているというよりもセンスの問題だ。短編集の訳者はアメリカへの留学経験があり、当然、ホットチョコレートという飲み物の存在を知っていたことだろう。対して野崎さん兵役で満州へは行ったが、アメリカ留学の経験はない。それでも、ここではホットチョコレートなのだ。才能というのは少しずつあちこちに小さな花を咲かせていくことをいう。

 訳者にそこまで求めるのは酷だとも思う。実際、「あんたやってみなはれ」と言われても、まずぼくには出来ない。また、同じ野崎さんの手によるヘミングウェイを読んだ際にはこれほどの感銘を受けはしなかった。やはり、日本での《ライ麦畑でつかまえて》に関しては、原著者と訳者の波長がぴったりと合ってしまった幸運な事故といった面が強いと思う。もちろん訳者のそのときの精神状態までをも含めて。

 消化不良を起こした後に、短編集の訳者によるあとがきを読んだ。そこには、
「とてもではないけれど、自分のレベルではこの言葉の魔術師のような作家のことばを到底訳しきれない……」
 そんな独白にも似た記述が最後の部分にあった。そのうえ読者からここまでつつかれたのでは浮ばれない。ごめんなさいね。






 今日、たまたま寄った紀伊國屋書店ニューヨーク。アメリカ文学の集められたテーブルで《ライ麦畑でつかまえて》を見つけた。手にとって発見した違いが表紙。帯に隠されているが、かつてピカソのイラストのあった箇所はブランクとなり、巻末までページを繰ると、訳者によるあとがきも削除されている。気になって、自宅へ帰り調べてみると、
「原著者との新たな契約により書籍に掲載することができなくなりました」とのことで、〈訳者によるあとがき〉全文を出版社である白水社のHPに収録することで双方を立てている。
 頑固、変わり者、キチガイとすら言う人のいるサリンジャーさん。かなりの年齢のはずですが、まだまだご健在のようです。

 数年前、村上春樹さんが訳した《キャッチャー・イン・ザ・ライ》。
 こちらの方はまだ読んでいない。そのうち出会いがあるでしょう、ブックオフで。いい出会いとなるような予感はありますが、お楽しみはいつものように先送りにしておくこととします。出会いというのはそんなもんなんだ、と言い訳をしながら。
 初体験の相手がその人の人生に大きな影響を与えることがある。
 野崎孝さんの訳が初体験の者と、村上春樹さんだった人では遠くに見えるアメリカの姿、そして自分自身もまた違ってくるのだろう。それはどんな姿なのだろう?
 とりあえずぼくは、この本に若くして出合えたことをうれしく思い、約30年を経て再読するチャンスを与えてくれた偶然に感謝する。
 もちろんY先輩にも。
[PR]
by seikiny1 | 2009-10-16 10:31 | アメリカとの距離
<< ノート2冊 サイン >>
記事ランキング 画像一覧